75年の節目

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1945年 07月の終わりに、イギリス、中国、アメリカの「ポツダム宣言」による降伏の呼びかけに応じた日本は、「無条件降伏」を宣言した。

 

日本は1945年 08月のはじめに連合国側に「合意による和解」の提案をしたが認められず、08月 06日から 12日の週、月曜日に広島、木曜日には長崎に原子爆弾が落とされ、2つの都市は破滅した。

 

広島に落とされたTNT火薬、約 1万 3,000トン相当の破壊力を持つウラン型原爆は、爆心地周辺の地表面温度は 3,000 ~ 4,000度にも達し、広島の約 7割を破滅させた。

爆心地から 1.5キロ以内の範囲はいたるところが崩壊した原爆で約 8万人が即死、1945年の 12月末までに約 1万 4,000人が死亡した。

 

原爆で負傷した多くの人は医療手当も受けられないまま死亡した。広島に救援に来た人々も原爆の後に発生した放射能の黒い雨の被害に遭い死亡した。

 

長崎には上空約 500メートルの地点からTNT火薬約 2万 2,000トンの破壊力を持つ原爆が投下された。長崎の周りを囲む山により遮断されたものの、原爆により約 7万人が即死、長崎の半分が破滅した。

 

当時の日本の天皇(昭和天皇)は 08月15日に発表したメッセージで、「 戦争を続けることは国民を滅亡させることになる 」と表明し、日本は無条件降伏をすると宣言した。

広島は軍事基地、長崎は重工業の企業があったことから、原爆投下の目標地に選ばれたと言われている。

 

 

広島への原爆投下から 75年

広島市の平和記念公園で、市主催の「 原爆死没者慰霊式・平和祈念式 」(平和記念式典)が開かれたが、新型コロナウイルス対策の為、参列者は例年の 1割以下( 市は 880席を用意 )となった。

09日には長崎市松山町の平和公園で、市主催の平和祈念式典が営まれた。

 

05日の米紙ロサンゼルス・タイムズ(電子版)で、米軍による広島と長崎への原爆投下について「 米指導層は不要だと分かっていた 」とする寄稿文を掲載した。

米国では原爆投下が「 戦争を早期に終結させ、双方の被害を抑えるため必要だった 」という見解が一般的だが、それに異を唱える主張と言える。

寄稿したのはシンクタンク「 デモクラシー・コラボレーティブ 」共同創設者で歴史学者のガー・アルペロビッツ氏と、米ジョージ・メイソン大のマーティン・シャーウィン教授 (歴史学) 。アルペロビッツ氏は、原爆投下がソ連に対する威嚇が主目的だったとする著作で知られる。

 

寄稿文は「 原爆を使わなくても日本が 1945年 08月に降伏していたことは、日米の歴史文書で圧倒的に示されている 」と主張。

さらに「 ( 原爆投下を決断した当時の ) トルーマン大統領や側近らもそれを分かっていたことが、数々の資料で証明されている 」と断じた。具体的には、日本の敗戦を決定づけたソ連の対日参戦について、トルーマンは 1945年 07月のポツダム会談でスターリンから確約を得ていたと指摘。トルーマンが会談後、夫人に「 戦争は 1年早く終わる 」と伝えたエピソードを引用した。

 

また、米軍最高幹部 8人のうち 7人が、原爆使用について「 軍事的に不必要か倫理的に非難に値する、あるいはその両方 」と主張していたことを紹介。その一人で大統領の軍事顧問を務めたリーヒ元帥が、回想録に「 広島と長崎での ( 原爆という ) 残酷な兵器の使用は、対日戦勝利に向けた物理的な助けには全くならなかった 」と記していることを強調した。

寄稿文は、米科学誌発表の「 終末時計 」が今年、人類滅亡を示す午前 0時まで過去最短の「 100秒 」と発表したことに言及。

その事実が「 核の時代の暴力的な幕開けが、いまだ歴史の中に封じ込められていないことを思い起こさせてくれる 」と結んでいる。

 

「 戦争を早期に終結させ、双方の被害を抑えるため必要だった 」っと言う「 戦争勝者側の見解 」で、痛ましい状況が生み出され、何千、何万の方々が亡くなった。

私から言わせれば、「 何故アメリカが原爆を落とすことで戦争を終わらせるという選択 」をしたのか理解が出来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年 08月 28日

 

 

 

 

1945年 07月の終わりに、イギリス、中国、アメリカの「ポツダム宣言」による降伏の呼びかけに応じた日本は、「無条件降伏」を宣言した。

 

日本は1945年 08月のはじめに連合国側に「合意による和解」の提案をしたが認められず、08月 06日から 12日の週、月曜日に広島、木曜日には長崎に原子爆弾が落とされ、2つの都市は破滅した。

 

広島に落とされたTNT火薬、約 1万 3,000トン相当の破壊力を持つウラン型原爆は、爆心地周辺の地表面温度は 3,000 ~ 4,000度にも達し、広島の約 7割を破滅させた。

爆心地から 1.5キロ以内の範囲はいたるところが崩壊した原爆で約 8万人が即死、1945年の 12月末までに約 1万 4,000人が死亡した。

 

原爆で負傷した多くの人は医療手当も受けられないまま死亡した。広島に救援に来た人々も原爆の後に発生した放射能の黒い雨の被害に遭い死亡した。

 

長崎には上空約 500メートルの地点からTNT火薬約 2万 2,000トンの破壊力を持つ原爆が投下された。長崎の周りを囲む山により遮断されたものの、原爆により約 7万人が即死、長崎の半分が破滅した。

 

当時の日本の天皇(昭和天皇)は 08月15日に発表したメッセージで、「 戦争を続けることは国民を滅亡させることになる 」と表明し、日本は無条件降伏をすると宣言した。

広島は軍事基地、長崎は重工業の企業があったことから、原爆投下の目標地に選ばれたと言われている。

 

 

広島への原爆投下から 75年

広島市の平和記念公園で、市主催の「 原爆死没者慰霊式・平和祈念式 」(平和記念式典)が開かれたが、新型コロナウイルス対策の為、参列者は例年の 1割以下( 市は 880席を用意 )となった。

09日には長崎市松山町の平和公園で、市主催の平和祈念式典が営まれた。

 

05日の米紙ロサンゼルス・タイムズ(電子版)で、米軍による広島と長崎への原爆投下について「 米指導層は不要だと分かっていた 」とする寄稿文を掲載した。

米国では原爆投下が「 戦争を早期に終結させ、双方の被害を抑えるため必要だった 」という見解が一般的だが、それに異を唱える主張と言える。

寄稿したのはシンクタンク「 デモクラシー・コラボレーティブ 」共同創設者で歴史学者のガー・アルペロビッツ氏と、米ジョージ・メイソン大のマーティン・シャーウィン教授 (歴史学) 。アルペロビッツ氏は、原爆投下がソ連に対する威嚇が主目的だったとする著作で知られる。

 

寄稿文は「 原爆を使わなくても日本が 1945年 08月に降伏していたことは、日米の歴史文書で圧倒的に示されている 」と主張。

さらに「 ( 原爆投下を決断した当時の ) トルーマン大統領や側近らもそれを分かっていたことが、数々の資料で証明されている 」と断じた。具体的には、日本の敗戦を決定づけたソ連の対日参戦について、トルーマンは 1945年 07月のポツダム会談でスターリンから確約を得ていたと指摘。トルーマンが会談後、夫人に「 戦争は 1年早く終わる 」と伝えたエピソードを引用した。

 

また、米軍最高幹部 8人のうち 7人が、原爆使用について「 軍事的に不必要か倫理的に非難に値する、あるいはその両方 」と主張していたことを紹介。その一人で大統領の軍事顧問を務めたリーヒ元帥が、回想録に「 広島と長崎での ( 原爆という ) 残酷な兵器の使用は、対日戦勝利に向けた物理的な助けには全くならなかった 」と記していることを強調した。

寄稿文は、米科学誌発表の「 終末時計 」が今年、人類滅亡を示す午前 0時まで過去最短の「 100秒 」と発表したことに言及。

その事実が「 核の時代の暴力的な幕開けが、いまだ歴史の中に封じ込められていないことを思い起こさせてくれる 」と結んでいる。

 

「 戦争を早期に終結させ、双方の被害を抑えるため必要だった 」っと言う「 戦争勝者側の見解 」で、痛ましい状況が生み出され、何千、何万の方々が亡くなった。

私から言わせれば、「 何故アメリカが原爆を落とすことで戦争を終わらせるという選択 」をしたのか理解が出来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年 08月 28日

 

 

 

 

1945年 07月の終わりに、イギリス、中国、アメリカの「ポツダム宣言」による降伏の呼びかけに応じた日本は、「無条件降伏」を宣言した。

 

日本は1945年 08月のはじめに連合国側に「合意による和解」の提案をしたが認められず、08月 06日から 12日の週、月曜日に広島、木曜日には長崎に原子爆弾が落とされ、2つの都市は破滅した。

 

広島に落とされたTNT火薬、約 1万 3,000トン相当の破壊力を持つウラン型原爆は、爆心地周辺の地表面温度は 3,000 ~ 4,000度にも達し、広島の約 7割を破滅させた。

爆心地から 1.5キロ以内の範囲はいたるところが崩壊した原爆で約 8万人が即死、1945年の 12月末までに約 1万 4,000人が死亡した。

 

原爆で負傷した多くの人は医療手当も受けられないまま死亡した。広島に救援に来た人々も原爆の後に発生した放射能の黒い雨の被害に遭い死亡した。

 

長崎には上空約 500メートルの地点からTNT火薬約 2万 2,000トンの破壊力を持つ原爆が投下された。長崎の周りを囲む山により遮断されたものの、原爆により約 7万人が即死、長崎の半分が破滅した。

 

当時の日本の天皇(昭和天皇)は 08月15日に発表したメッセージで、「 戦争を続けることは国民を滅亡させることになる 」と表明し、日本は無条件降伏をすると宣言した。

広島は軍事基地、長崎は重工業の企業があったことから、原爆投下の目標地に選ばれたと言われている。

 

 

広島への原爆投下から 75年

広島市の平和記念公園で、市主催の「 原爆死没者慰霊式・平和祈念式 」(平和記念式典)が開かれたが、新型コロナウイルス対策の為、参列者は例年の 1割以下( 市は 880席を用意 )となった。

09日には長崎市松山町の平和公園で、市主催の平和祈念式典が営まれた。

 

05日の米紙ロサンゼルス・タイムズ(電子版)で、米軍による広島と長崎への原爆投下について「 米指導層は不要だと分かっていた 」とする寄稿文を掲載した。

米国では原爆投下が「 戦争を早期に終結させ、双方の被害を抑えるため必要だった 」という見解が一般的だが、それに異を唱える主張と言える。

寄稿したのはシンクタンク「 デモクラシー・コラボレーティブ 」共同創設者で歴史学者のガー・アルペロビッツ氏と、米ジョージ・メイソン大のマーティン・シャーウィン教授 (歴史学) 。アルペロビッツ氏は、原爆投下がソ連に対する威嚇が主目的だったとする著作で知られる。

 

寄稿文は「 原爆を使わなくても日本が 1945年 08月に降伏していたことは、日米の歴史文書で圧倒的に示されている 」と主張。

さらに「 ( 原爆投下を決断した当時の ) トルーマン大統領や側近らもそれを分かっていたことが、数々の資料で証明されている 」と断じた。具体的には、日本の敗戦を決定づけたソ連の対日参戦について、トルーマンは 1945年 07月のポツダム会談でスターリンから確約を得ていたと指摘。トルーマンが会談後、夫人に「 戦争は 1年早く終わる 」と伝えたエピソードを引用した。

 

また、米軍最高幹部 8人のうち 7人が、原爆使用について「 軍事的に不必要か倫理的に非難に値する、あるいはその両方 」と主張していたことを紹介。その一人で大統領の軍事顧問を務めたリーヒ元帥が、回想録に「 広島と長崎での ( 原爆という ) 残酷な兵器の使用は、対日戦勝利に向けた物理的な助けには全くならなかった 」と記していることを強調した。

寄稿文は、米科学誌発表の「 終末時計 」が今年、人類滅亡を示す午前 0時まで過去最短の「 100秒 」と発表したことに言及。

その事実が「 核の時代の暴力的な幕開けが、いまだ歴史の中に封じ込められていないことを思い起こさせてくれる 」と結んでいる。

 

「 戦争を早期に終結させ、双方の被害を抑えるため必要だった 」っと言う「 戦争勝者側の見解 」で、痛ましい状況が生み出され、何千、何万の方々が亡くなった。

私から言わせれば、「 何故アメリカが原爆を落とすことで戦争を終わらせるという選択 」をしたのか理解が出来ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年 08月 28日