鉄の女死す

 

マーガレット・ヒルダ・サッチャー

( Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, PC, FRS、旧姓: ロバーツ ( Roberts ) 。

イギリス保守党初の女性党首( 在任: 1975年 〜 1990年 )、イギリス初の女性首相( 在任: 1979年 〜 1990年 )となる。

1992年からは貴族院議員。

保守的かつ強硬なその性格から 「 鉄の女 」( Iron Lady )の異名を取った。

1925年、リンカンシャーグランサムの食糧雑貨商の家に生まれる。

父・アルフレッド・ロバーツは地元の名士であり、市長を務めた経験もあった。

サッチャーの生家は代々メソジストの敬虔な信徒であり、生家の家訓であった 「 質素倹約 」 「 自己責任・自助努力 」 の精神はサッチャーにも色濃く受け継がれた。

父を非常に尊敬し、サッチャーは 「人間として必要なことは全て父から学んだ」 と度々口にしていた。

オックスフォード大学で化学を学び、1947年に卒業。

その後、研究者の道に進み、ライオンズ社に就職した研究者時代にアイスクリームに空気を混ぜてかさ増しする方法を研究したことがある。

コロイド化学が専門であり、Langmuir- Blodgett 膜の研究を行っていた時期もある。

一方、大学時代にはフリードリヒ・ハイエクの経済学にも傾倒していた。

この頃に培われた経済学に対する思想が、後の新自由主義的な経済改革( いわゆるサッチャリズム )の源流になったと言われている。

 

1950年、保守党から下院議会議員選挙に立候補するが、落選する。

翌1951年には 10歳年上のデニス・サッチャー( en:Denis Thatcher )と結婚し、法律の勉強を始め、 1953年には弁護士資格を取得。( この当時は女権拡張について強く訴えていた。)

1959年に下院議員に初当選を果たし、1970年からヒース内閣で教育科学相を務める。

この時、教育関連予算を削減する必要に迫られたサッチャーは学校における牛乳の無償配給の廃止を決定し、「 ミルク泥棒 ( Margaret Thatcher, Milk Snatcher ( 強奪者 ) ) 」と謗られるなど、猛烈な抗議の嵐を巻き起こした。

 

1974年の選挙で保守党は敗北を喫し、翌 1975年 02月に保守党党首選挙が行われる。

当初、サッチャーは党内右派のキース・ジョセフを支持していたが、ジョセフは数々の舌禍を巻き起こして党内外から反発を受け、立候補を断念してしまった。

そのため、右派からはサッチャーが出馬する。

教育科学相の経験しかないサッチャーの党首選への出馬を不安視する声も多かったが、エドワード・ヒースを破り保守党党首に就任する。

同年、イギリスを含む全 35ヶ国で調印、採択されたヘルシンキ宣言を痛烈に批判した。

これに対し、ソビエト連邦の国防省機関紙 「 クラスナーヤ・ズヴェーズダ( 赤い星Красная звезда:現在でもロシア連邦国防省機関紙として刊行 )」は 1976年 01月 24日号の記事の中で、サッチャーを 「 鉄の女 」 と呼び、非難したが、 皮肉にも、この「 鉄の女 」の呼び名をサッチャー自身も気に入ってしまい、その後あらゆるメディアで取り上げられたために、サッチャーの代名詞として定着した。

 

1992年からは貴族院議員を務め、政治の表舞台から退いた。

2008年に長女のキャロルが、サッチャーの認知症が進み、夫が死亡したことも忘れるほど記憶力が減退していることを明かした。

2008年 08月 24日付の英紙メール・オン・サンデーが詳報を掲載し、 それによると、8年前から発症し、最近は首相時代の出来事でさえも「 詳細を思い出せなくなってきた 」としていた。

一方でサッチャーの功績に関する書籍を出版したイーアン・デールは、2010年にサッチャーと面会した際には目の前の出来事を把握するのに難があったものの、首相

時代の記憶ははっきりしていたと証言している。

2012年 12月 21日、膀胱にできた腫瘍を取るため、入院、手術を受けた。

2013年 04月 08日、脳卒中のため死去したことが、サッチャー家のスポークスマンより発表された。87歳だった。

 

イギリス政府はサッチャーの葬儀を 04月 17日にセントポール寺院で、エリザベス女王とエジンバラ公の参列を賜る準国葬にすると発表した。

サッチャーの棺は霊柩車でウエストミンスター宮殿からトラファルガー広場のあるホワイトホール地域を通過しセント・クレメント・デインズ教会で大砲馬車に乗り換え、セントポール寺院に到る。

首相経験者の葬儀に国王( エリザベス女王 )が参列するのは 1965年に亡くなったウィンストン・チャーチル元首相以来 48年ぶりである。

 

その一方で、イギリス各地では首相在任中のいわゆる 「 サッチャリズム 」 政策によって労働者階級や移民など 「 切り捨てられた市民 」 の間では 「 彼女の死を祝賀するパーティ 」 が見られたり、ネット上には 「( サッチャーによって )地獄が民営化されようとしています」 「( サッチャーが )地獄に落ちてわずか 20分で地獄のかまどが3つ廃炉になった 」 などと首相在任時期の小さな政府政策と絡めて批判するコラージュが登場した。

また 「 鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ 」( 映画『 オズの魔法使い 』の挿入歌 )が、英国音楽ダウンロードチャートの 1位となった。

また 「 鉄の女 」 に異名から死者にささげる言葉「 RIP 」を 「 安らかに錆びろ ( Rust In Peace ) 」 として批判する者もいた。

 

 

2013年 04月 30日

 

 

 

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マーガレット・ヒルダ・サッチャー

( Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, PC, FRS、旧姓: ロバーツ ( Roberts ) 。

イギリス保守党初の女性党首( 在任: 1975年 〜 1990年 )、イギリス初の女性首相( 在任: 1979年 〜 1990年 )となる。

1992年からは貴族院議員。

保守的かつ強硬なその性格から 「 鉄の女 」( Iron Lady )の異名を取った。

1925年、リンカンシャーグランサムの食糧雑貨商の家に生まれる。

父・アルフレッド・ロバーツは地元の名士であり、市長を務めた経験もあった。

サッチャーの生家は代々メソジストの敬虔な信徒であり、生家の家訓であった 「 質素倹約 」 「 自己責任・自助努力 」 の精神はサッチャーにも色濃く受け継がれた。

父を非常に尊敬し、サッチャーは 「人間として必要なことは全て父から学んだ」 と度々口にしていた。

オックスフォード大学で化学を学び、1947年に卒業。

その後、研究者の道に進み、ライオンズ社に就職した研究者時代にアイスクリームに空気を混ぜてかさ増しする方法を研究したことがある。

コロイド化学が専門であり、Langmuir- Blodgett 膜の研究を行っていた時期もある。

一方、大学時代にはフリードリヒ・ハイエクの経済学にも傾倒していた。

この頃に培われた経済学に対する思想が、後の新自由主義的な経済改革( いわゆるサッチャリズム )の源流になったと言われている。

 

1950年、保守党から下院議会議員選挙に立候補するが、落選する。

翌1951年には 10歳年上のデニス・サッチャー( en:Denis Thatcher )と結婚し、法律の勉強を始め、 1953年には弁護士資格を取得。( この当時は女権拡張について強く訴えていた。)

1959年に下院議員に初当選を果たし、1970年からヒース内閣で教育科学相を務める。

この時、教育関連予算を削減する必要に迫られたサッチャーは学校における牛乳の無償配給の廃止を決定し、「 ミルク泥棒 ( Margaret Thatcher, Milk Snatcher ( 強奪者 ) ) 」と謗られるなど、猛烈な抗議の嵐を巻き起こした。

 

1974年の選挙で保守党は敗北を喫し、翌 1975年 02月に保守党党首選挙が行われる。

当初、サッチャーは党内右派のキース・ジョセフを支持していたが、ジョセフは数々の舌禍を巻き起こして党内外から反発を受け、立候補を断念してしまった。

そのため、右派からはサッチャーが出馬する。

教育科学相の経験しかないサッチャーの党首選への出馬を不安視する声も多かったが、エドワード・ヒースを破り保守党党首に就任する。

同年、イギリスを含む全 35ヶ国で調印、採択されたヘルシンキ宣言を痛烈に批判した。

これに対し、ソビエト連邦の国防省機関紙 「 クラスナーヤ・ズヴェーズダ( 赤い星Красная звезда:現在でもロシア連邦国防省機関紙として刊行 )」は 1976年 01月 24日号の記事の中で、サッチャーを 「 鉄の女 」 と呼び、非難したが、 皮肉にも、この「 鉄の女 」の呼び名をサッチャー自身も気に入ってしまい、その後あらゆるメディアで取り上げられたために、サッチャーの代名詞として定着した。

 

1992年からは貴族院議員を務め、政治の表舞台から退いた。

2008年に長女のキャロルが、サッチャーの認知症が進み、夫が死亡したことも忘れるほど記憶力が減退していることを明かした。

2008年 08月 24日付の英紙メール・オン・サンデーが詳報を掲載し、 それによると、8年前から発症し、最近は首相時代の出来事でさえも「 詳細を思い出せなくなってきた 」としていた。

一方でサッチャーの功績に関する書籍を出版したイーアン・デールは、2010年にサッチャーと面会した際には目の前の出来事を把握するのに難があったものの、首相

時代の記憶ははっきりしていたと証言している。

2012年 12月 21日、膀胱にできた腫瘍を取るため、入院、手術を受けた。

2013年 04月 08日、脳卒中のため死去したことが、サッチャー家のスポークスマンより発表された。87歳だった。

 

イギリス政府はサッチャーの葬儀を 04月 17日にセントポール寺院で、エリザベス女王とエジンバラ公の参列を賜る準国葬にすると発表した。

サッチャーの棺は霊柩車でウエストミンスター宮殿からトラファルガー広場のあるホワイトホール地域を通過しセント・クレメント・デインズ教会で大砲馬車に乗り換え、セントポール寺院に到る。

首相経験者の葬儀に国王( エリザベス女王 )が参列するのは 1965年に亡くなったウィンストン・チャーチル元首相以来 48年ぶりである。

 

その一方で、イギリス各地では首相在任中のいわゆる 「 サッチャリズム 」 政策によって労働者階級や移民など 「 切り捨てられた市民 」 の間では 「 彼女の死を祝賀するパーティ 」 が見られたり、ネット上には 「( サッチャーによって )地獄が民営化されようとしています」 「( サッチャーが )地獄に落ちてわずか 20分で地獄のかまどが3つ廃炉になった 」 などと首相在任時期の小さな政府政策と絡めて批判するコラージュが登場した。

また 「 鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ 」( 映画『 オズの魔法使い 』の挿入歌 )が、英国音楽ダウンロードチャートの 1位となった。

また 「 鉄の女 」 に異名から死者にささげる言葉「 RIP 」を 「 安らかに錆びろ ( Rust In Peace ) 」 として批判する者もいた。

 

 

2013年 04月 30日

 

 

 

 

マーガレット・ヒルダ・サッチャー

( Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, PC, FRS、旧姓: ロバーツ ( Roberts ) 。

イギリス保守党初の女性党首( 在任: 1975年 〜 1990年 )、イギリス初の女性首相( 在任: 1979年 〜 1990年 )となる。

1992年からは貴族院議員。

保守的かつ強硬なその性格から 「 鉄の女 」( Iron Lady )の異名を取った。

1925年、リンカンシャーグランサムの食糧雑貨商の家に生まれる。

父・アルフレッド・ロバーツは地元の名士であり、市長を務めた経験もあった。

サッチャーの生家は代々メソジストの敬虔な信徒であり、生家の家訓であった 「 質素倹約 」 「 自己責任・自助努力 」 の精神はサッチャーにも色濃く受け継がれた。

父を非常に尊敬し、サッチャーは 「人間として必要なことは全て父から学んだ」 と度々口にしていた。

オックスフォード大学で化学を学び、1947年に卒業。

その後、研究者の道に進み、ライオンズ社に就職した研究者時代にアイスクリームに空気を混ぜてかさ増しする方法を研究したことがある。

コロイド化学が専門であり、Langmuir- Blodgett 膜の研究を行っていた時期もある。

一方、大学時代にはフリードリヒ・ハイエクの経済学にも傾倒していた。

この頃に培われた経済学に対する思想が、後の新自由主義的な経済改革( いわゆるサッチャリズム )の源流になったと言われている。

 

1950年、保守党から下院議会議員選挙に立候補するが、落選する。

翌1951年には 10歳年上のデニス・サッチャー( en:Denis Thatcher )と結婚し、法律の勉強を始め、 1953年には弁護士資格を取得。( この当時は女権拡張について強く訴えていた。)

1959年に下院議員に初当選を果たし、1970年からヒース内閣で教育科学相を務める。

この時、教育関連予算を削減する必要に迫られたサッチャーは学校における牛乳の無償配給の廃止を決定し、「 ミルク泥棒 ( Margaret Thatcher, Milk Snatcher ( 強奪者 ) ) 」と謗られるなど、猛烈な抗議の嵐を巻き起こした。

 

1974年の選挙で保守党は敗北を喫し、翌 1975年 02月に保守党党首選挙が行われる。

当初、サッチャーは党内右派のキース・ジョセフを支持していたが、ジョセフは数々の舌禍を巻き起こして党内外から反発を受け、立候補を断念してしまった。

そのため、右派からはサッチャーが出馬する。

教育科学相の経験しかないサッチャーの党首選への出馬を不安視する声も多かったが、エドワード・ヒースを破り保守党党首に就任する。

同年、イギリスを含む全 35ヶ国で調印、採択されたヘルシンキ宣言を痛烈に批判した。

これに対し、ソビエト連邦の国防省機関紙 「 クラスナーヤ・ズヴェーズダ( 赤い星Красная звезда:現在でもロシア連邦国防省機関紙として刊行 )」は 1976年 01月 24日号の記事の中で、サッチャーを 「 鉄の女 」 と呼び、非難したが、 皮肉にも、この「 鉄の女 」の呼び名をサッチャー自身も気に入ってしまい、その後あらゆるメディアで取り上げられたために、サッチャーの代名詞として定着した。

 

1992年からは貴族院議員を務め、政治の表舞台から退いた。

2008年に長女のキャロルが、サッチャーの認知症が進み、夫が死亡したことも忘れるほど記憶力が減退していることを明かした。

2008年 08月 24日付の英紙メール・オン・サンデーが詳報を掲載し、 それによると、8年前から発症し、最近は首相時代の出来事でさえも「 詳細を思い出せなくなってきた 」としていた。

一方でサッチャーの功績に関する書籍を出版したイーアン・デールは、2010年にサッチャーと面会した際には目の前の出来事を把握するのに難があったものの、首相

時代の記憶ははっきりしていたと証言している。

2012年 12月 21日、膀胱にできた腫瘍を取るため、入院、手術を受けた。

2013年 04月 08日、脳卒中のため死去したことが、サッチャー家のスポークスマンより発表された。87歳だった。

 

イギリス政府はサッチャーの葬儀を 04月 17日にセントポール寺院で、エリザベス女王とエジンバラ公の参列を賜る準国葬にすると発表した。

サッチャーの棺は霊柩車でウエストミンスター宮殿からトラファルガー広場のあるホワイトホール地域を通過しセント・クレメント・デインズ教会で大砲馬車に乗り換え、セントポール寺院に到る。

首相経験者の葬儀に国王( エリザベス女王 )が参列するのは 1965年に亡くなったウィンストン・チャーチル元首相以来 48年ぶりである。

 

その一方で、イギリス各地では首相在任中のいわゆる 「 サッチャリズム 」 政策によって労働者階級や移民など 「 切り捨てられた市民 」 の間では 「 彼女の死を祝賀するパーティ 」 が見られたり、ネット上には 「( サッチャーによって )地獄が民営化されようとしています」 「( サッチャーが )地獄に落ちてわずか 20分で地獄のかまどが3つ廃炉になった 」 などと首相在任時期の小さな政府政策と絡めて批判するコラージュが登場した。

また 「 鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ 」( 映画『 オズの魔法使い 』の挿入歌 )が、英国音楽ダウンロードチャートの 1位となった。

また 「 鉄の女 」 に異名から死者にささげる言葉「 RIP 」を 「 安らかに錆びろ ( Rust In Peace ) 」 として批判する者もいた。

 

 

2013年 04月 30日