沈没後 “ 100年 ”
タイタニック( RMS Titanic )は・・・
20世紀初頭に建造された、当時の最新鋭の技術を駆使した豪華客船だった。
世界中が注目する中、処女航海中の 1912年 04月 14日、深夜に氷山に接触し、翌日未明にかけて沈没した。
犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人( 他に1,490人、1,517人、1,522~23人など様々な説がある )、当時世界最悪の海難事故であった。
その後、映画化などされて、世界的に知られる様になる。
もともとタイタニックは、イギリスのホワイト・スター・ライン社が北大西洋航路用に計画した 3隻のオリンピック級客船のうちの 2番船で、姉妹船にオリンピック、ブリタニックがある。
主任設計技師はアレキサンダー・カーライルで、沈没時に運命を共にしたことで有名なトーマス・アンドリューズはホワイト・スター・ライン社と折り合いの悪かったカーライルが辞任したのちに主任設計技師として計画に参加し、タイタニックの設計図面を完成させた。
北アイルランドのベルファストにあるハーランド・アンド・ウルフ造船所で建造された、当時世界最大の豪華客船で、タイタニックの正式名称は「 R.M.S.( Royal Mail ShipまたはSteamer )Titanic 」R.M.S. は郵便物の輸送に用いられる船という意味であり、船上でステーショナリーを買ったり、手紙を投函することもできた。
タイタニック号の造船計画は、20世紀初頭に造船業としての勢力を保っていたハーランド・アンド・ウルフの会長・ウィリアム・ピリーが、1907年、ロンドンのメイフェアの夕食会でホワイト・スター・ライン社のジェームス・ブルース・イズメイ社長に大型客船 3隻の造船計画を発案したことに始まる。
1912年 04月 10日に、タイタニックはイギリスのサウサンプトン港にある専用の埠頭であるオーシャンドックからニューヨークへとむけた処女航海に出航した。
エドワード・J・スミス船長の指揮下のもと乗員乗客合わせて 2,200人以上を乗せており、一等特別室は、06日の航海の費用4,350ドルと伝えられている。
サウサンプトン港出航の直前、ワイルド航海長の着任に伴った上級船員の異動により、降格となったブレア前二等航海士が双眼鏡を二等航海士キャビンにしまったことをライトラー二等航海士に引き継がないまま下船してしまい、双眼鏡はそのまま行方不明となった。
このため、周辺の監視を双眼鏡を使わずに肉眼で行うしかなくなった。
さらにサウサンプトン港出航の際には、タイタニックのスクリューから発生した水流によって、客船ニューヨークと衝突しそうになったが、この時は間一髪で回避できた。
そのままフランスのシェルブールとアイルランドのクイーンズタウン( 現コーヴ ) に寄港し、アメリカのニューヨーク港に向かった。
14日午前よりたびたび当該海域における流氷群の危険が船舶間の無線通信として警告されていた。
少なくともタイタニックは同日に 6通の警告通信を受け取っている。
しかし、この季節の北大西洋の航海においてはよくあることだと見なされてしまい、航海士間での情報共有も徹底されなかった。
さらに混信があり、衝突の 40分前に近隣を航行するリーランド社の貨物船「カリフォルニアン」から受けた流氷群の警告も雑音として見過ごされてしまった。
タイタニックの通信士たちは前日の無線機の故障もあり、蓄積していた旅客達の電報発信業務に忙殺されていた。
スミス船長は氷山の危険性を認識しており、航路を通常より少なくとも18km南寄りに変更していた。
04月 14日 23時40分、北大西洋のニューファンドランド沖に達したとき、タイタニックの見張りが前方450mに高さ20m弱の氷山を肉眼で発見した。
この海域は暖流と寒流がぶつかりちょうど境界面に位置するため、世界的にも海霧が発生しやすい海域として有名であり、タイタニック号が氷山に遭遇したころも直前まで海面には靄が漂っていた( 当直見張員フレデリック・フリートの証言による )。
また双眼鏡がなく( 但し、双眼鏡自体は『 遠くにある物を見る 』機能しかもっていない為、タイタニック号が置かれた状況下では、あっても役に立たなかった可能性が高い)、月のない星月夜の海は波もなく静まり返っていたため、氷山の縁に立つ白波を見分けることも容易でなく、発見したときには手遅れだった( タイタニックの高さは、船底から煙突先端までで 52.2m。氷山はその10% 程度しか水上に姿を現さないので、水面下に衝突する危険が高い )。
沈没が差し迫ったタイタニックでは左舷はライトラー 2等航海士が、右舷はマードック 1等航海士が救命ボートへの移乗を指揮し、ライトラーは 1等船客の女性・子供優先の移乗を徹底して行い、一方のマードックは比較的男性にも寛大な対応をした。
しかし、当時のイギリス商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要がなく( 規定では 978人分。規定が改訂されたのは、タイタニックの沈没後 )、またデッキ上の場所を占め、なによりも短時間で沈没するような事態は想定されていなかったために、1178人分のボートしか用意されていなかった。
規定が 1万トン級船舶が主流だった頃に作成されたものだったからである。
また、タイタニック起工直前の1909年 01月に起こった大型客船「 リパブリック号 」沈没事故も影響していたといわれる。
リパブリック号沈没事故では、他船との衝突から沈没まで 38時間もの余裕があり、その間に乗客乗員のほとんどが無事救出されたことから、大型客船は短時間で沈没しないものであり、救命ボートは救援船への移乗手段であれば足りるという見方が支配的になったことも、後述するように犠牲者を増やす結果につながった。
また、定員数を乗せないまま船を離れた救命ボートも多い。
これはライトラー 2等航海士を含め、多くの士官がボートをダビット( 救命ボートの昇降装置 )に吊り下げたまま船が沈没することを最大の恥辱と感じていたため、できるだけ早く海面にボートを下し、舷側にある乗船用扉を開いて、乗客を乗せようと考えていたこと、タイタニックの乗組員の多くが未熟で、ボートフォール( 救命ボートを吊るロープ )の扱いに慣れていなかったことや、ダビットが乗員の重さで曲がってしまうことを恐れたためともいわれる( 実際にはボート設備の施工時に、定員 65人乗りのボートに 70人乗せてテストを行い良好な結果を得ていたが、その結果を船員に周知しきれていなかった )。
最初に下ろされた中には、定員の半数も満たさないまま船から離れたボートもあった。
結局、1500名近い乗員乗客が本船から脱出できないまま、衝突から 02時間 40分後の 02時 20分、轟音と共にタイタニックの船体は 2つに大きくちぎれ( 海中で 3つに分裂 )、ついに海底に沈没した。
沈没後、すぐに救助に向かえば遭難者の皆が舷側にしがみつき救命ボートまでもが沈没するかもしれないと他の乗組員が恐れたため、数ある救命ボートのうちたった 1艘しか溺者救助に向かわなかった( 左舷 14号ボート)。
そのボートは救助に向かうため、再編成をしたロウ 5等航海士が艇長のボートであった。
しかし、ロウ 5等航海士が準備を整えて救助に向かった時、沈没から既に30分は経過しており、もはや手遅れだった。
04月の大西洋は気温が低く、人々が投げ出された海は海水温零下 2度。
乗客の大半は低体温症などでほとんどが短時間で死亡( 凍死 )か、低体温症以前に心臓麻痺で数分以内で死亡したと考えられている。
その中には赤ん坊を抱いた母親もいたという。
最新の科学技術の粋を集めた新鋭船の大事故は、文明の進歩に楽観的な希望をもっていた当時の欧米社会に大きな衝撃を与えた。
事故の犠牲者数は様々の説があるが、イギリス商務省の調査によると、この事故での犠牲者数は 1,513人にも達し、当時世界最悪の海難事故といわれた。
この事故をきっかけに船舶・航海の安全性確保について、条約の形で国際的に取り決めようという動きが起こり、1914年 01月「 海上における人命の安全のための国際会議 」が行われ、欧米 13カ国が参加、「 1914年の海上における人命の安全のための国際条約 」( The International Convention for the Safety of Life at Sea,1914 )として採択された。
また、アメリカでは船舶への無線装置配備の義務付けが強化され、無線通信が普及するきっかけになったとされる。
2012年 04月28日
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